2002年11月1日発行/専慶流いけばな真樹会主宰・西阪慶眞


花材/寒桜

ポイント 四季咲き桜の一種である寒桜。春の桜と異なり花持ちが良く、蕾が次々に開花し、可憐な花が長期鑑賞できる。幹は比較的撓めやすく、作品は曲線美をいかせた優美な美しさを捉えた「内陽流し」。線の重複を避けること。



花材/プロティア、カークリコ、ドラセナ、デンファーレ

ポイント 熱帯地方から送られてくるプロティアは大きな花穂は羽を紅く染めたようなもので囲われた特異な植物。茎は親指以上の太さで、長さ30〜50センチ程度の寸法で出回る。新鮮なものは葉の色も美しく、そのまま使うが、大きすぎたり繁茂しているものは取って整理し、花を引き立てます。

カークリコは長さ60〜100センチにもなる大きな葉だが、緑の色に深みがある。ハランのように切って使うのでなく、大きい状態で使いたい。
そのままでは長すぎるので、ここでは半分位の所で曲げた形で使っている。

足元には紅い葉のドラセナを配し、前後にデンファーレを配し、彩りを添えている。

プロティアは花がとても重いので、器は極力安定した形を選びたい。


(京都西山/金蔵寺) 

純真な子供、エゴの大人

  偶然テレビ放映されていた 先生と生徒の互いの言い分をぶつけ合う と言ったような番組を目にした。茶髪、ピアス、ガングロと呼ばれる見るからに雰囲気の異なる若者、暴走族、苛めにあった子、虐めた子、様々な学生、更正した若者や芸能人。それに対して様々な経歴を過ごして来た教師達との間に繰り広げられる様々な意見のぶつかり合いだった。こんな質問があった「学校へは、何をしに行くのか?」。「寝る為に行く」「友達に合いに行く」…。なんとつまらない番組だと思いながらも、これが現実社会の縮図なのかと考えなおし、しばし耳を傾ける。
 番組の詳細はともかく、社会の平等、個人の自由、個性の尊重など、個々はどのように認識しているのだろうか。人によってその規範があまりにもかけ離れていて話は平行線をたどる。小紙でも度々記述しているが「自由」の定義は難しい。しかし、云える事は、若者に注文をつける前に、特に年輩者の思考回路の切り替えが必要なのでは。何故なら男尊女卑、徒弟制度回路の影響を受けた人がまだまだ沢山存在し、長いものには巻かれろ的回路の大人が横行しているからだ。
 個人=社会、個人=家族ではない。個人は個人であり、何人も束縛されることのない自己主張、個性尊重は当然のこと。個人が望むなら髪の毛を紅く染めるのもよし、男が髪の毛を長く伸ばすのも一向差し支えない。外観だけでなく、思考回路面でも個々の主張があってこそ議論が熱く戦われ、その結果、明日への進歩が期待出来ると云うもの。
 「人生とは運命の玩具箱。人間とはその玩具箱に投げ込まれた人形だ」と言った人がいるが、人間はこの玩具箱でどんなピエロを演じられるか、つまり、どのような個性を発揮出来るかであろう。社会に受け入れられたい、とか、或いは注目されたいなどと下心を抱いている間は本物の人間とはなり得ない。思う存分羽ばたいたところで、たかが玩具箱の中。一定の規範さえ守れば個人の行動に詮索される事はないはず。
 先生を先生と尊敬しない生徒が増えているのは師にあぐらをかき、任務をおろそかにした代償でもある。本来、子供はみんな純真無垢。その原石を磨くのは親や社会教育以外何物でもない。つまり大人の姿勢が今の若者を形成している。親を親と思わない子供がいるとすれば当然それは親の責任であり、学校のあり方、ひいては社会に警告を発していると心得るべきである。
 私の教室に中学生の生徒がいる。親の薦めではなく本人の熱い希望で門をたたいて来た。ここで注目したいのはその中学生にいけばなを習いたいという気持ちを芽生えさせた背景が存在するはず。母が生けていた花に感動して、或いは花をいたわる穏やかな家庭環境が、本人にも知らず知らずの内に日本文化、いけばなに興味を持たせ、自らの足を教室に向かわせたのだろうと推測できる。教室では一昔前の師と弟子のような窮屈さは押しつけない。いけばなに関しての知識、技術、礼儀作法はき然とした姿勢で臨み、厳しく教えるが、レッスン外となると個と個の繋がりとなる。つまり、私は先生であるとともに良き友と化し、実に楽しく自然体の会話に花を咲かす。壁があるとすればやはり大人のエゴだと思わずにはいられない。
                                   華道専慶流 西阪慶眞


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